< メジャーリーグのパイオニア野茂英雄

野茂英雄が立ち上げた野球チーム

野茂英雄が立ち上げた野球チーム

2013年8月10日のドジャーススタジアムで行なわれた始球式に登場したのは、「16」番の背番号をつけた野茂英雄さんです。日本人メジャーリーガーの先駆者として、野茂英雄さんが日本人プロ野球選手にメジャーリーグの扉を開いて海を越えたといっても過言ではないほどぐらいです。「トルネード投法」でメジャーリーグで大活躍した野茂英雄さんが2014年1月17日に、日本野球界の野球殿堂入りを果たしました。資格を取得して1年目での殿堂入りは、故川上哲治氏を抜いての最年少での受賞でした。

2014年の野球殿堂入りプレーヤー部門で選出されたのは、野茂英雄氏のほかに佐々木主浩氏、秋山幸二氏。ちなみに野茂氏は今回の選出は候補者となって初の年度はもちろんのこと、トップ当選での選出でした。日本とアメリカで巻き起こしたトルネード旋風の実績を評価されての表彰ですが、野茂さんは当日表彰式を欠席しています。その理由は「NOMOベースボールクラブ」主催の少年野球大会が兵庫県で開催されていたからです。殿堂入りしたいと願う元野球選手が多いなか、少年野球大会の開催があるために欠席するという野茂さんは、本当にすごい人です。

殿堂入りの知らせを聞いて「NOMOベースボールクラブ」が活動している兵庫県豊岡にある城崎温泉で野茂さんは会見を開きました。そこで「本当に驚いています。投票していただいた方、これまで支えてくれた方、家族、チームメイト、周りの人に感謝したい。記者とは現役時代にあまり仲良くなかったのに、資格を得た1年目で選ばれたことに正直驚いていますし、感謝しています。」と話をしました。

NOMOベースボールクラブ

野茂英雄さんが設立した社会人野球チームが「NOMOベースボールクラブ」で、特定非営利活動法人でのクラブになっています。もちろん日本野球連盟に所属しています。このチームの活動資金の大半は野茂さんが出資していますが、運営母体になっている特定非営利活動法人(NPO法人)の会員からの寄付や会費での運営になっています。

このチームが設立したキッカケは社会人野球チームの廃部が相次いだことからでした。アマチュア野球界の発展を支えてきたのは、社会人野球の都市対抗野球などはまさに社会人野球チームを象徴する試合でもあります。社会人野球は企業チームということもあって、企業を取り巻く経済環境が厳しくなったことから休部や廃部が筒いていきました。社会人企業チームがピークの時は1963年には237チームあったのが、2003年には84チームへと激減しています。野茂さんが所属していた企業チーム新日鐵堺も休部となっています。

「もう一度野球に挑戦したい」という思いを抱きながらも、野球を続ける環境がなければ夢をあきらめるしか仕方ありません。野茂さん自身が高校卒業した後に、企業チームに3年間所属したことが自分自身を成長させてくれた。と述べています。企業チームがどんどん減る現状に危機感を抱いたことから、若い野球選手が活躍できる場所を!ということから2003年に立ち上げたチームです。

NOMOベースボールチームの概要

NOMOベースボールクラブの選手たちは、昼間は他の企業でアルバイトをしたり社員として働きながら、夜に野球の練習をする日々を送っています。目標とするのは、プロで活躍する野球選手ということもあるため、独立リーグに移籍したり他の社会人チームに移籍したりすることにもとても寛容なチームです。

2011年に大阪府堺市を本拠地として活動してきましたが、堺浜野球場が阪神高速6号大和川線の建設用地となることから、本拠地移転を余儀なくされていることとなり、移転先の候補地として佐賀県鳥栖市や千葉県柏市が移転先の候補として挙がっていましたが、2012年5月31日に兵庫県豊岡市への移転を正式に発表となり、2013年1月から豊岡市での活動を開始しています。チームとしての報酬があるわけでないので、昼間は城崎温泉のホテルや旅館で洗い場やレストランなどで働きながら、夜は野球に汗をかく日々を送っています。

2003年に設立してから、2年で都市対抗野球初出場を決めました。この大会では初戦で敗退してしまいましたが、全日本クラブ野球選手権では初出場で初優勝を飾っています。そしてこの年2005年ドラフト会議では、中日ドラゴンズから5巡目で指名されて入団を果たして、NOMOベースボールクラブ出身選手としては初となるプロ野球選手になりました。

NOMOベースボールクラブ出身:プロ野球選手

2005年…柳田殖生内野手
 :2005年 大学・社会人ドラフト 5巡目で指名
2008年…藤江均投手
 :2007年に東邦ガスに移籍⇒2007年ドラフト会議で横浜ベイスターズドラフト2巡目で指名
2008年…福元淳史内野手
 :2008年にドラフト会議⇒ 読売ジャイアンツから育成選手ドラフト4巡目で指名
2008年…須田健太投手
 :2008年にシアトル・マリナーズとマイナー契約。タコマ・レイニアーズ入団
2008年…宇高直志投手
 :紀州レンジャーズ
2008年…碩野佑紀捕手
 :大阪ゴールドビリケーンズ
2009年…杉原洋投手
 :2009年 横浜ベイスターズと契約 (2009年社会人野球日本選手権大会近畿最終予選でノーヒットノーラン達成)

野茂英雄

野茂さん自身がいわゆる「野球エリート」人生を歩んできたわけではありません。高校時代から注目を集めてドラフト指名されての入団でもありません。小・中学校のときも全くの無名選手でした。高校進学する時には、いわゆる名門といわれる野球部のセレクションをいくつか受けていますが、不合格だったこともあり、甲子園とはほとんど縁の無い公立高校(大阪府立成城工業高等学校)に進学しています。

NOMOベースボールチームには『夢をあきらめるな。』と野茂英雄さんの手描きの言葉が書かれています。かつて月刊誌の「文藝春秋」で「僕が社会人野球にこだわるのは、失敗ができる環境が絶対に必要だからと思うからです。一回の失敗で学ぶ選手もいれば、一万回失敗してようやく花開く選手だっているんです。そうやって成長していける場が必要なんです」と述べています。「野球エリート」ではない道を進んできたからこそ、まだまだやれる野球人が野球をできる環境を願い作り上げました。

高校~社会人へ

進学した大阪府立成城工業高等学校(現:大阪府立成城高等学校)で、2年生からエースになっています。1985年7月19日に全国高等学校野球選手権大阪大会2回戦の大阪府立生野高等学校戦では、完全試合を達成したほか、3年の時には5回戦進出のベスト16入りの成績を残しています。

高校卒業後は新日本製鐵堺へ入社しています。勤務崎は新日本製鐵堺の子会社の新日鐵化学です。当時の給料は額面で11万9000円、税金など引かれて手取りになると9万円ほどの給料でした。ちなみに「野球エリート」のひとり、清原和博さんの場合は高校へ進学する時に30校に近いスカウトから選んだのがPL学園高校。甲子園には5季連続出場して、夏の大会で2回の優勝・準優勝1回など華々しい高校時代を送り、ドラフトで西武に入団していますがその当時高校出身で最高額となる推定8000万円の契約を結んでいます。清原さんと野茂さんの学年の違いは1年だけ。同じ野球をしていながら「野球エリート」とそうではない「野球人」の格差は、かなりの差が開いての高校卒業後の野球人生スタートです。

社会人1年目でまだスライダーは習得できなかったようですが、最大の武器になるフォークボールを習得しています。そして2年目でチームを都市対抗野球大会へと導き、野茂さん自身も日本代表に選出され1988年ソウルオリンピックで銀メダル獲得に貢献しています。

見事にアマチュア野球投手としてナンバー1になったことで、社会人チームからどこのプロ野球へ行くのかと行き先が注目されましたがドラフト会議の前に「どこの球団から指名されても入団する」ということを明言しています。そして1989年ドラフト会議で史上最多となる8球団(阪神・ロッテ・ヤクルト・横浜・ホークス・ファイターズ・ブレーブ・バッファローズ)から1位指名を受けていますが、この1989年のドラフトは豊作とも言われていて、粒ぞろいの選手たちがいました。小宮山悟さん、佐々岡真司さん、与田剛さん、潮崎哲也さん、佐々木主浩さん、他にも元木さんや新庄さんもこの年のドラフト選手です。そんなドラフト豊作のときに、史上最多の8球団からの指名を受けた野茂さんの凄さは明らかに他の選手よりも頭ひとつ抜きでいた存在でした。

抽選の結果は、近鉄が交渉権を得ることになりました。推定契約金は史上初の1億円台の1億2000万円、推定年俸1200万円です。契約する時には【投球ホームを変更しない】という条項が付け加えられての契約となりました。

近鉄に入団

近鉄に入団してプロとして初登板したのは、1990年4月10日の西武ライオンズ戦です。その後はなかなか勝利の付かない試合が続きましたが、4月29日のオリックス戦で当時日本タイ記録となるの1試合17奪三振を記録して、プロ初勝利を完投であげています。

入団した1990年に、新人でありながらも最多勝利・最優秀防御率・最多奪三振・最高勝率と投手4冠を独占したほか、ベストナイン・新人王・沢村栄治賞・MVPにも輝いています。ちなみに沢村賞の対象にパ・リーグの投手が選考対象になったのは1989年からということもあって、パ・リーグからの沢村賞受賞の第1号になりました。

新人王・沢村賞・MVPをトリプル受賞したのは野茂さんだけで、2010年までに新人王と沢村賞を権藤博さん、堀内恒夫さん、上原浩治さんが果たしています。木田勇さんはダブル受賞しているのは新人王とMVPですが、当時の沢村賞がセ・リーグのみを対象にしていたこともあって、受賞対象になっていませんでした。【ドクターK】の名前にふさわしく、奪三振を重ねて息シーズン2桁奪三振試合が21回、5試合連続2桁奪三振、三振奪取率10.99(パ・リーグ最高記録)といった今までの記録を次々に更新していきました。まさに【ドクターK野茂英雄】の活躍を見せました。

1990年から1993年にかけて、史上初となる新人年からの4年連続最多勝と最多奪三振のタイトルの同時獲得を達成しています。かつて江夏豊さんが、新人から4年連続最多奪三振をしていますが、江夏豊さんの時代はまだタイトルではありませんでした。

近鉄監督の交代

『仰木マジック』とも呼ばれた名将仰木監督は、1987年から近鉄の監督に就任していました。野茂さんが入団した時の監督は仰木監督です。仰木監督が育てた選手には、後にメジャーリーグに挑戦したイチロー選手、田口選手、長谷川滋利選手などがいます。仰木監督はかなり豪快な人物として知られていますが、一流の選手に口を出すことはしない。という監督でした。仰木監督が一流と認めていた野茂さんに対して調整方法やピッチングなど、あれやこれや口を出すことは一切せずに、全て本人に任していました。

契約事項に【投球ホームを変更しない】という項目が付き加えられていた通り、トルネード投法に口を出すこともなくオープン戦までに仕上げろ!など言うこともなく、開幕までに仕上げが間に合うように。「試合で結果を出せばいい」という監督でした。

西武に勝て!と仰木監督は選手に言っていましたが、仰木監督だからこそ1990年代の西武:清原和博VS近鉄:野茂英雄の勝負があったのだといえます。清原さんはPL学園のスター選手。野茂さんより1学年上で同じ大阪の高校とはいってもPL学園と無名の公立高校では、試合などあるはずもなく野茂さんにとっては清原さんとの勝負はとても楽しみにしていた勝負でもあり、負けたくないという勝負でした。

未だに名勝負と言われるのには、野茂さんの真っ向勝負のストレートで討ち取りに行くという姿です。野茂さんの代名詞といえば、手元でグンと落ちるフォークボールですが、フォークボールで三振をとるのではなく、ストレート勝負。当時のスピードは150キロを超えるストレート。打たれることもあれば、三振を奪うこともできる。常にストレートで真っ向勝負を挑んでいきました。

仰木監督は、「フォークを投げればもっと抑えられのに」と言ったそうですが、「お客さんが楽しみしとるやろ。本人たちも楽しんどる。ちょっと胃が痛いが、俺が我慢すりゃええんや」そんな仰木監督だったからこそ、野茂さんも自分のピッチングを追及することができたのでしょう。1993年までに数々のタイトルを取り、まさに球界を代表する投手となったのですが仰木監督から鈴木啓二監督へ近鉄の監督が変わったことが、これから先の野茂さんの野球人生を大きく変えることになりました。