< メジャーリーグへ|メジャーリーグのパイオニア野茂英雄

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近鉄に入団して最初の契約更改したときに、契約更改に要した時間は70分です。投手部門の主要タイトルをほぼではなく総なめしての初となる契約更改の年俸は3倍アップの3600万円。タイトル代として別で1000万円。合計4600万円で判子を押しました。予想では新人右腕がもぎ取った8個のタイトルに対してプロ2年目で5000万円という憶測でしたが、近鉄は大盤振る舞いすることはなく中堅との兼ね合いを考慮しての4600万円、野茂も提示された金額をみて「ちょっと足らんけどまぁいいだろう。これで来年もやっていこう」という気持ちになったというので、穏便な契約更改でした。

そして、1991年・1992年と連続最多勝のタイトルを保持して年俸も4600万円から6600万円。1992年のオフには億を超えた1億1400万円での契約となりました。1994年に戦線離脱して2軍にいる時に野茂さんは後に代理人となる団野村さんに出会います。当時団野村さんは、外国人選手の代理人をつとめていました。そこで自分の置かれている経緯を団氏に話をして、漠然ではあるものの憧れのMLBに挑戦したいことなどを話しすることになりました。

近鉄退団

1994年の契約更改になる前から、団野村氏は行動を起こしています。日本の野球協約を翻訳してアメリカで代理人として活躍しているアーン・テレム氏に相談を持ちかけてます。「日本球界からMLBに行くための道はないだろうか?」と。そこで日本の野球協約の中に「任意引退条項」に大きな穴があることを見つけるのでした。そこには「日本球界で任意引退リストに載った選手が、国内でもう一度復帰する場合は、元の球団に戻らなければならない」と言う部分で、アーン・テレブ氏から「日本国外でプレーする場合、何らかの拘束を受けるという記述は何もない」という指摘を受けるのでした。

バッシングの嵐の中

1994年に野茂さんは団野村氏を代理人とした「代理人交渉」を希望します。今では日本プロ野球での契約更改ではごく当たり前ですが、1992年に当時ヤクルトスワローズの古田敦也選手が、契約更改交渉で初めて代理人による契約交渉を希望しましたが球団側が「球団と選手の信頼関係が揺らぎかねない」といった理由で、代理人交渉を認めていませんでした。そして近鉄球団も代理人交渉を拒否しています。

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団野村氏の戦略

「日本球界で任意引退リストに載った選手が、国内でもう一度復帰する場合は、元の球団に戻らなければならない」という野球協約にに記載されている「任意引退条項」から、MLBコミッショナーに相談を持ちかけて、MLBから日本のコミッショナー事務局へ質問状を提出してもらうのでした。「任意引退選手が外国の球団に所属」することができるようにするためにきちんとした確約を得るためでした。

MLBから日本の事務局に出した質問状には「日本で任意引退になった選手は、海外に移籍してもいいのか?」という質問状でした。日本のコミッショナー事務局は、MLBに対しての回答で次のような返信をしました。

「日本の任意引退選手が現役に復帰したければ、日本国内を選ぶ場合は元のチームとしか契約できない。言い換えれば、アメリカのチームとならば契約できる。」といった回答でした。実際にかつて西武に所属していたデストラーゼ選手は任意引退した後、日本国外でプレーした例がありました。どうしたら任意引退できるのか。どのようにして任意引退するように持って行くのか。ということを考えて契約更改へ望むべきかを検討していたのでした。

契約更改のときに、球団側が絶対YESといわないような条件をあえて出す作戦です。強気に出なくてはいけません。MLBコミッショナー事務局を通じて、日本コミッショナー事務局の「海外球団とならば契約できる」という回答書があるのですから、任意引退に持ち込むための契約更改です。

  • ①複数年契約を認めてほしい
  • ②代理人契約を認めてほしい

当然ながら、上記の2点を近鉄球団ははねつけます。その当時複数年契約そのものもないのが当たり前でした。球団側は代理人交渉ももちろん認めず、野茂の故障を前面に打ち出し「怪我をしているのに複数年契約を持ち出すのは何事だ?!」「すでに近鉄の顔じゃない!」といった感情的なコメントを球団側は出し、1回目の契約交渉は終わります。

続いての交渉で、野茂サイドはさらに要求をエスカレートさせます。当時のFA取得は10年間1軍でプレーしてようやくFA取得が認められていたため、極端な話をすれば10年になるちょっと前に2軍に落とすこともできるほど、球団側にとても都合の良い条件でした。ちなみに野茂さんの場合、FA権利を取得するまで残り6年がありました。要求は「FA取得までの6年20億の複数年契約」です。そしてこれが受け入れてくれないなら、球界からの引退することを言いました。

近鉄球団の上層部は「自分のキャリアがどうなるのか考えろ」「チームのことも考えろ」と迫りますが、「考えているから辞めるんです」と答えています。仰木監督が退団してから起用法から調整法、そしてコンディショニングコーチ立花さんのこと、など球団とはいろいろな場面でいろいろと揉めてきました。退団した立花コンディショニングコーチとは個人的に契約を結んでいたことも、球団からすれば面白くなかったことでしょう。野茂さんからすると、投手として自分が結果をだす事を考え、また好きな野球のために自分のとってベストと思うことを貫きたいということから出た言葉なのかもしれません。

「だったら、この場ですぐにサインしろっ!」と球団社長は、任意引退契約書を持ち出してきます。もちろん野茂さんは出してきた任意引退契約書にすぐサインします。この時点で、近鉄は大投手の野茂英雄を失ってしまいました。

マスコミ大バッシング

近鉄と野茂との契約交渉で揉めているとマスコミ各社が騒動になっている中に、団野村氏はMLBと日本コミッショナーとの間でやりとりされた「任意引退に関する」この回答書をリークします。

その結果マスコミの紙面には「野茂大リーグへ挑戦?」といった文字が躍るようになりました。

球団側は、任意引退契約書にサインした野茂さんを甘く見ていたのかもしれません。回答書のことを知り、近鉄側は驚き日本コミッショナーに助けを求め「書簡は私信に過ぎないのでは?!」といった悪あがきをしますが、過去の事例をみても日本コミッショナーの解釈はその通りで任意引退契約書にサインをしたからには、海外の球団と契約することは可能になったのでした。

面子を保つためにも、「アメリカ行きのお膳立てをしよう。最後は我々に任せてくれないか?!」と提案しますが、ここまでに至った経緯がある野茂サイドにすれば「お願いします」などと言うことなどありえません。

「すでに近鉄を退団したので、これからアメリカへ行くのにあなた方の助けは必要ありません」

そこで完全にキレた近鉄球団は、全ての交渉のやりとりを球界関係者に明らかにします。他の球団にとっても一連の出来事は決して他人事で済まされることでもなく、近鉄サイドを支持して野茂サイドを批判します。当然鈴木啓二監督も猛烈な批判を繰り広げていきます。「あいつのメジャー挑戦は人生最大のマスターベーション」とまで言い切るほどです。マスコミも「態度が悪い」「野茂の肩はもうすでに故障している。メジャーで通用するはずもない」「大リーグは甘くない。すぐに逃げ帰ってくる」「勘違いで自意識過剰も甚だしい」などと、とにかく大バッシングの嵐でした。

近鉄を退団して、選んだ球団はロサンゼルス・ドジャースです。契約の理由は『球団オーナーの人柄と、オーナーからの熱心な誘い』がドジャースを選んだ理由です。契約は1995年2月8日、メジャー契約ではなくマイナー契約で、年俸も980万円でした。近鉄での年俸1億4000万から考えると、お金での移籍ではなかったことが分かります。

入団した時に記者会見で抱負を聞かれて話したことは『みんなが憧れる選手になりたい。でも自分はこれから続く人のために失敗できない』

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