< 鈴木啓二監督との確執|メジャーリーグのパイオニア野茂英雄

鈴木啓二監督との確執

鈴木啓二監督との確執

鈴木啓二監督は投手出身です。それも大投手で通算成績317勝で歴代4位。若い頃にはパリーグの鈴木にセリーグの江夏と並んで称されるほど、奪三振の多い名投手でした。そして選手として鈴木啓二出した300勝投手はこれ以降登場していないだけに、かなりの大投手でした。もちろんつけていた現役時代の背番号1はパリーグで唯一の永久欠番でもありました。

監督としてはどうだったのか?!

2005年5月に行なわれたトークショーで監督時代の反省を言葉にしています。「現役時代に自分自身が指導者に恵まれた現役時代でありながら、監督としてそれを生かすことが出来なかった」この言葉の通り、近鉄の監督に就任してから野茂のピッチングや調整法などかなり口を出してきました。野茂だけに口を出すのではなく、全ての選手に関してもそうです。後に金村義明は自著の『勝てる監督 負けるボス』で、鈴木啓二監督のことを「最低の監督」と評しています。

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根性論の監督

仰木監督から鈴木啓二監督になり、近鉄の監督に就任した1993年のキャンプでのランニングの時に、選手たちに指示したことは「スパイクを履いてランニングをするように」ということでした。当時のコンディションニングコーチは立花龍司さんで、立花さんは1989年に近鉄とコンディショニングコーチとして初めてプロ野球チームと契約していた人物で、野球でも合理的なトレーニングの実践が重要だということで、スポーツ医学の単位を修得後アメリカでは既に広まっていた最新のトレーニング理論を導入して仰木監督の頃から、既に実践していました。

従来の野球の指導は「徹底した走りこみ」「徹底的な投げ込み」といった練習方法でそれも長時間に渡るものでした。1989年にコンディショニングコーチとして近鉄と契約してから、従来の野球の指導ではなく、最新のトレーニング理論を導入して実践していったことからコーチ陣からはかなりの反発を受けていましたが、故障者が減ったこともあって仰木監督や近鉄の選手の中で高く評価されていました。その中でも特に野茂さんからは厚い信頼を寄せられるほどでした。

「スパイクを履いてランニングするように」といった鈴木啓二監督に対して「この冬場にスパイクを履いてランニングをすると、足を痛める原因になるからそれは辞めてほしい」と言うと、鈴木監督は自分の体験談を持ち出して「野球選手ならスパイクを履いてランニングするのは当たり前」とスパイクを履いてのランニングを譲らず、野茂の調整も、公式戦までに間に合うようにではなくオープン戦から結果を出すことを要求してきました。

調整方法も仰木監督の時には、野茂さん自身に任せれていたので、コンディショニングコーチの立花さんと野茂さんはマンツーマンで調整する方法を取っていました。調整内容も遠投したりといった独自の調整方法でしたが、鈴木啓二監督は調整方法に関しても口を出します。下半身強化を重視していたため「走り込み」で調整することを要求していきました。「ひたすら走り込め」で調整しろという要求に関して「いったい何周走ればいいんですか?」という質問に対して「何周とか違う。野球選手はひたすら走るもんなんや!」という根性論。自分の現役時代の持論で調整を求めていきました。

鈴木啓二監督の座右の銘は「草魂」。プロ野球選手のあるまじき姿は、いわゆる根性論そのもので「強い精神力で肉体の酷使に極限まで耐えるのがプロ野球選手」という考えたという信念ですが、コンディショニングコーチの立花さんは、合理性を重視して「適度な休息を含める」というトレーニングやリハビリテーションの実践を重視していました。そのため、鈴木啓二監督は「選手経験もないくせに勝手なことを言って選手を惑わせている」と考えて対立を深めていきました。立場的に監督という鈴木啓二さんは、コンディショニングコーチの立花さんを冷遇します。

しかし近鉄の選手は立花さんを支持しているため、キャンプインの前の自主トレの時に立花さんの指導を受けていたことも、鈴木啓二監督からすると面白くなかったのでしょう。冷遇された立花さんは、1993年のシーズン終了後に近鉄のコンディショニングコーチを退団しています。立花さんが退団したことで、投手陣と鈴木啓二監督はますます対立することになりました。

投手だった鈴木啓二監督が野茂のピッチングに関して、ラジオ番組で話した内容に「三振はとるが、四球が多すぎる。投球フォームを改造しなければ、いずれ通用しなくなる。その時に頭を私に下げてこられるかどうかだ」といった内容の話をしていいるため、野茂の特徴でもあるトルネード投法を全否定していることが伺えます。

1994年

開幕戦は西武戦で、投手は野茂さんです。西武戦では4回までに11奪三振。そして8回まで無安打に野茂さんは抑えていましたが、リリーフした赤堀元之が伊東勤に逆転サヨナラ満塁本塁打を浴びて敗戦しています。

7月1日の西武戦では、1試合16与四球の日本記録。191球を投げて3失点完投勝利を挙げていますが、シーズンの途中の7月に右肩痛のため戦線を離脱しているため、最多勝と最多奪三振の連続記録も途切れました。

戦線を離脱した野茂さんに対して「野茂?!あいつはまだまだや!エースとは呼べん」と近鉄のエースが離脱したことに関して記者に鈴木啓二監督は答えています。そして戦線離脱した野茂選手がいない間に近鉄は16ゲーム差あった西武に追いつく快進撃を続け(13連勝)て西武に追いつきました。7月に離脱して9月に復帰した野茂さんに対して「お前がおらんでも13勝できたんぞ!」と言ったといった話もある程です。

1994年の野茂選手の成績は8勝7敗で終わり登板は114イニングでした。いわば、多投球での完投が多かったことは歴然です。この結果は、監督の投手起用と采配に問題があることは明白です。野茂さん自身は、すでにこの頃には、「あの監督の下ではやれないと思った」と腹を決めていたようです。何が何でもメジャーに行きたい。メジャーでプレーしたいというのが理由ではなく、鈴木啓二監督の元では野球はできない。と思っていました。そして鈴木啓二監督にだけではなく、近鉄球団に関しても不信感を抱いていました。

近鉄球団に対して不信感を抱いていたのは、鈴木啓二監督のときではなく仰木監督の頃から近鉄に関して様々な不満がありました。

先発の時に車を駐車いた場所を球団関係者の偉い人が来るから車をどかせろ。と言われたり、観客動員が増えることで収入が増える。近鉄が優勝したら優勝したことを評価して、その分の年俸を上げなくてはいけなくなることから、野茂と球団との契約更改の席では「熾烈な優勝争いをして2位に終わるのが一番」と言われりしたことなども不信感を抱くことになりました。

近鉄はミズノと契約していましたが、野茂さんはナイキと個人契約を結んでいたため、肖像権といった見解の相違もありここでも球団との確執を生んでいます。それとやはりとても球団との確執の中で特に大きなことは、野茂が前面的に信頼をしていたコンディショニングコーチの立花さんの退団ということも大きな理由です。

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